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濱田庄司について
民芸運動に傾倒し作陶した日本初の人間国宝
濱田庄司(はまだ しょうじ 1894-1978年)は、神奈川県橘樹郡(現川崎市)に生まれた陶芸家です。1955年に、日本初の重要無形文化財いわゆる人間国宝として指定された30人のうちの一人として知られています。また紫綬褒章、文化勲章をそれぞれ受章しています。庄司は、東京府立一中(現東京都立日比谷高等学校)を卒業後、東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科に進み、窯業の科学的な基礎知識を学びました。卒業後は学校の先輩であった河井寛次郎とともに釉薬の研究をおこなっています。この頃、柳宗悦や富本憲吉、バーナード・リーチらと知り合い、以降は民芸運動に傾倒していきました。帰国するリーチに同行するかたちでイギリスへ渡り、コーンウォール州セント・アイヴスに築窯、その後ロンドンで個展を成功させます。帰国後は沖縄の伝統的な技法で焼成される壺屋焼などを学んだのち、益子焼きの産地である栃木県に築窯しました。日用品の中に「用の美」を見出そうとする民芸運動に対する活動には終始熱心で、大阪万博の際には日本民芸館パビリオンの名誉館長をつとめました。
また、1977年には長年蒐集してきた民芸品を展示するために「益子参考館」を開いています。シンプルな造形と釉薬による大胆な模様作りが特徴で、代表的な陶磁器作品に、「塩釉押文花瓶(しおぐすりおしもんかびん)」、「柿釉青流描角鉢(かきぐすりあおながしがきかくばち)」などがあります。ちなみに、濱田晋作(次男)、濱田篤哉(三男)、濱田友緒(孫)は陶芸家として、濱田能生(四男)は硝子工芸家として活動しています。