掛軸の歴史 中国から伝わり日本で花開いた文化

掛軸の歴史 中国から伝わり日本で花開いた文化

中国から渡来し、 日本独自の進化を遂げた骨董品・掛軸の歴史
掛軸は、中国から渡来した絵画様式です。中国における掛軸の歴史は古く、晋の時代(265年 – 420年)のころからすでに作られていました。日本へは中国からつたわり、以後、中国からの影響を断続的に受けながら、次第に日本独自の様式を確立していきました。
ここでは、中国から渡ってきた当初の掛軸の姿から始まって、平安時代・鎌倉時代などを経て江戸時代・明治時代に大きく花開いた掛軸の歴史を簡単にご紹介していきましょう。

飛鳥時代:中国から掛軸が渡来

掛軸は、中国掛軸を起源とする絵画様式

日本に中国から朝鮮半島経由で掛軸が伝わってきたのは、飛鳥時代(592~710年)だと言われています。日本掛軸の原型となるものは「仏画」として中国から渡来しました。

中国では、飛鳥時代以前の晋の時代(265~420年)に仏教絵画がたくさん制作され、仏教の普及のために使われていたのです。
初めのうちは仏画を額に納めた形だったのですが、持ち運びに不便なことと、運搬中の破損を避けることから、巻物の形に加工されるようになりました。これが、掛軸の原型です。
巻物の形にすると重量が軽くなり、破損の不安も少なくてすむため、次第に現在のような掛軸の形に代わっていきました。日本に渡来したのは、紙の形の掛軸だったと言われています。

掛軸とともに「床の間」の起源も登場

もともと仏教絵画であった掛軸は、先に挙げたように宗教的な絵画であって観賞用ではありませんでした。あくまでも仏教のために使用する宗教画・仏画であったため、個人で見るような美術作品ではなく、礼拝される対象だったのです。
こうした掛軸の伝来とともに、「床の間」の起源も成立しました。
仏画の掛軸を飾り台にかけ、まえに机を置く。机に香炉・花瓶・燭台の三具足(みつぐそく)を並べて飾るスタイルが、のちのち掛軸の隆盛を支えることになる日本独自のスペース「床の間」の起源だと言われています。

平安時代:掛軸の技術が全国へ拡大

天台密教、真言密教による曼荼羅図の掛軸

平安時代初頭に、日本仏教界を大きく変革する二人の僧が中国・唐から帰国し、掛軸の歴史に大きな影響を与えました。日本に天台密教を持ち帰った最澄と、真言密教を持ち帰った空海です。

二人が帰国後に開いた天台宗・真言宗のどちらも、密教美術のなかにさまざまな「曼荼羅図(まんだらず)」をもっていました。
本来の「曼荼羅図」は立体的・空間的に構成されているものですが、平安時代には絵画として描かれることがあり、大寺院の壁画や掛軸となってゆきました。

さまざまな曼荼羅図は日本の仏教史、美術史に大きな影響を及ぼし、ひいては日本風の掛軸の成立にかかわっていきます。
このころ、政治的にも経済的にも中国との交流にメリットを見いだせなくなった日本は、894年に遣唐使を正式に廃止。
こののち、次第に掛軸も中国風から日本独自のものへ進化を始めます。

現在に通じる表装の形式

平安時代の掛軸には、現在の表装の形に近いスタイルが用いられるようになりました。
平安時代の掛軸の表装は、本紙(絵画)の上下に紙もしくは裂地を足して、掛軸の下に「軸木」を付けた形式です。このごく簡単な形式の掛軸は、東京国立博物館「餓鬼草紙(がきそうし)」に描かれた絵の中に見受けられます。
表装は、こののち鎌倉時代に中国・宋(そう)からの表装技術の伝来を待って一気に進歩することになります。

鎌倉時代:禅宗の流行による掛け軸の人気

仏画・人物画・花鳥・山水など画題の多様化

鎌倉時代に入って、日本に禅宗が伝わりました。禅宗とともに、中国から水墨画という新しい形式の絵画が入ってきて、一躍人気のジャンルとなります。日本に大量にもたらされた山水画の中国掛軸は、しだいに掛軸を宗教的なものから観賞用の美術品へと変化させていきます。
この水墨画掛軸の大流行により、掛軸=掛けて礼拝するもの、というイメージから花鳥風月・人物画・山水画などの美術品として独自に成立することになったのです。

また禅宗は「頂相(ちんぞう)」という人物画を持ち込んだことも画期的でした。
「頂相(ちんぞう)」とは、宗派の祖師や高名な禅僧の肖像画のことで、非常に写実的な画風のものもあります。従来の宗教画とは異なる視点から絵画に取り組み、掛軸に表装する形式が一般化していきました。
この時期は、中国・宋(そう)の表装・表具形式が伝わり、後の日本掛軸の基本形が確立した時代でもあります。

武家文化の「書院造り」→床の間の原型の登場

鎌倉時代後期~室町時代にかけて、掛軸の歴史上エポックメイキングとなる現象が起きました。それが「書院造り」の登場です。
「書院造り」とは、書斎を主室とする建築形式で、ここに「押板(おしいた)」という部分が出来ました。奥行が浅く、間口が広い、ぶ厚い板を敷いた部分で、武家屋敷の中では主君を迎える場所として他のところよりも一段高くしつらえられていました。

「押板」には主君の権威や格式を表すために障壁画を描くこともあり、代わりに掛軸をかけることもありました。これが、現在の床の間の原型だと言われています。
床の間の原型ができたことで、室内に掛軸を飾る場所ができ、こののちの掛軸の隆盛に大きな影響を与えました。

室町時代:文化の発展にともない、掛軸も日本風様式

日常と芸術をつなぐ空間としての床の間

室町時代には、日本の文化は急速に独自の発展を遂げました。建築様式としては、武家屋敷のなかの「床の間」が、室内装飾の中心的な空間であると位置づけられていきます。
「床の間」という空間は、あまり他の国では見かけない日本独自のものです。

掛軸を飾り、そのほかの工芸品や美術品を飾る場所として機能している床の間は、日常生活と美術品を結び付ける空間でもあります。
日本の住宅の中に、日常的に美術品を飾る場所ができた点が、掛軸の発展に大いに寄与しています。

掛軸の輸入は増えるが、国内での水墨画掛軸も増加

室町時代には、「唐物(からもの)」と呼ばれる中国からの輸入品がふたたび人気となります。掛軸は仏教画や花鳥画・山水画など多彩な画題がみられ、中国からの掛軸の輸入量が飛躍的に増えました。

しかし中国掛軸の輸入量がふえても、日本国内における需要は共有を上回りました。
そこで幕府は「同朋衆(どうぼうしゅう)」と呼ばれる芸術に秀でた人材に命じて、中国絵画を手本とした水墨画を描かせました。
こうして、日本人が描いた掛軸の数も増加していきました。中国から入ってきた掛軸は、次第に日本独自のものに発展していったのです。

安土桃山時代:茶の湯の発展と掛軸の隆盛

戦国武将による茶の湯の流行

戦国時代から安土桃山時代にかけては、茶の湯文化が一世を風靡しました。とくに戦国時代に登場した織田信長と豊臣秀吉の2人が茶の湯を好んだことから、掛軸文化も一気に大進歩を遂げます。
なぜなら、茶の湯は床の間のある空間で行われるため、床の間を飾る掛軸が不可欠になったからです。

茶の湯で使われる掛軸は「茶掛け」と呼ばれ、季節や茶の席にまねく客によって、ふさわしい画題のものを選ぶようになりました。
茶の湯の流行で掛軸は一気に増え、美術品・芸術品としても飛躍的に価値が向上したのです。

「茶掛け」で掛軸の種類が変化

茶の湯の隆盛に欠かせないのが、千利休です。高い美意識を持っていた千利休が掛軸の重要性を説いたため、利休の弟子や茶の湯を愛する人の間で、掛軸が一気に流行し始めました。

茶の湯の掛軸は、客を招く時間や季節を考えて、定期的に取り換えます。客の格式などによっても掛軸を変えなくてはならないのです。
こうして広まった茶の湯の席では、宋・元の時代の中国掛軸だけではなく、書や「古筆」という平安時代から鎌倉時代にかけての名筆といったものも掛けられるようになりました。

江戸時代:日本書画の爛熟期

掛け軸・掛物の大隆盛時代

江戸時代は戦乱がほとんどなく、平和な時代が続きました。そのため絵画の分野でもさまざまな才能が華麗に花開いた時代です。数多くの有名画家が誕生し、しのぎを削り、よりよい物を生み出そうと切磋琢磨していたのです。
掛軸についても、人物画や吉祥画などをテーマとした「三幅対(さんぶくつい)という3枚セットの掛軸などが登場してきました。

日本三景をはじめ三美人図などが床の間を飾るようになり、掛軸は屏風と並んで日本を代表する絵画形式に成長しました。
同時に狩野派以外の画家も頭角を現すようになり、庶民の間でも浮世絵などが親しまれてきました。
画家も画題も表装も、江戸時代には掛軸に関するさまざまなものが一気に開花した時代だったのです。

文人画家の登場

江戸時代の特徴として「文人画」があります。
「文人画」は文化人・知識人の手による絵画のことで、日本には室町時代ごろに中国から伝わりました。江戸時代の中期以降に「文人画」は大流行し、日本人の文人画「南画(なんが)」というジャンルさえ確立したのです。
文人画には「文人表装」という形式も出てきました。

「文人表装」は中国から伝わった形式で、「丸表装」「明朝表装」などがあります。1種類または2種類の裂地で、上から下まで廻すのが「丸表装」、表装の両端に細い裂地をつけたものが「明朝表装」です。
表装ひとつをとっても、日本独自のスタイルが見られるのが江戸時代の掛軸の大きな特徴です。

明治時代~現代: 日本画掛軸の隆盛と、床の間の消失

日本画の隆盛で、掛軸も飛躍的に人気

明治時代以降、日本画は「洋画」とともに飛躍な人気を得ることになりました。
明治時代というと高橋由一、黒田清輝などの洋画家が活躍したイメージが強いのですが、実は画壇全体から見ると洋画家は一握りしかいませんでした。画壇の主流はあくまでも日本画家で、洋画家の影響を受けた日本画界も大きな発展を見せ、明治以降は掛軸が大量に作られた時代でもありました。

どの家にも床の間があり、掛軸が掛けられているのが一般的な風景でした。
第二次大戦前までおよび戦後しばらくの間、日本画は掛軸の形で日常生活に溶け込んでいたのです。

現在は住宅様式の変化で、掛軸は骨董品へ

実に残念なことですが、掛軸は第二次大戦以後、次第に目にする機会が減ってきました。大きな理由は戦後の住宅様式の変化です。
洋風の住宅には床の間がなくなり、掛軸をかけておく場所がなくなりました。
江戸時代から明治、昭和初期までよく見られた三幅セットの掛軸は見かけなくなり、現在では掛軸は美術館で見るものへ変化しています。

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