永仁の壺事件(えいにんのつぼじけん)は、古美術界、美術史学界、文化財保護行政までも揺るがした、歴史上に残る贋作事件です。

事件の始まりは、1943年1月「永仁二年(鎌倉後期)の文字が入った古い瓶子が発見された」と新聞に報じられ、根津美術館の満岡忠成と古陶磁研究家・赤塚幹也の二人は、その瓶子を見るために愛知県を訪れました。その時、現地案内をしていたのが、陶器研究家として活躍していた加藤唐九郎でした。のちに「永仁の壺事件」に関わる重要な人物です。

永仁二年の文字が入った瓶子(細長く口の狭い焼き物)は、その後、「永仁の壺」と呼ばれ、1959年には、鎌倉時代の「古瀬戸」の傑作であるとして、国の重要文化財に指定されました。「古瀬戸」とは、現在の愛知県・瀬戸市周辺で生産された陶器類のことです。

しかし、重要文化財指定直後から「永仁の壺」は、贋作で、鎌倉時代の作品ではなく、現代の作品なのではないかという声があがり、疑惑がもたれはじめました。理由は、形態や銘文・重量の不自然さなど、数多くあったからだと言われています。そんな中、1954年に発刊された『陶器大辞典』では、「永仁の壺」の写真が掲載され「この作品は鎌倉時代の作品である」と、加藤唐九郎が解説をしています。

1960年2月には、この問題が新聞に掲載され、更に騒動が大きくなり、唐九郎が疑惑の人物として取り上げられました。このとき、唐九郎は「壺は本物で、疑惑はでっちあげだ」と否定をしています。
同年8月には、唐九郎の長男・加藤嶺男が「永仁の壺は、自分が作り、父が銘を入れた」と贋作制作に携わっていたことを暴露し、同年9月には、パリにいた唐九郎が「永仁の壺」は、1937年頃に製作した自分の作品であると告白しました。それ以降、親子の対立が激しくなり、息子は、のちに岡部嶺男と名前を変えています。

翌年、文化財保護委員会では、位相差顕微鏡による調査やエックス線蛍光分析などを行い、鎌倉時代のものとは異なる作品だと判定したのです。それにより「永仁の壺」は、永仁二年(鎌倉後期)の作品ではなく、陶芸家・加藤唐九郎の現代作品であるということで、事件は終結を迎えました。

また、1961年に「永仁の壺」は、重要文化財の指定を解除され、推薦していた文部技官・文化財専門審議会委員であった小山富士夫は、責任を取って辞任しました。更に、加藤唐九郎は、織部焼で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されていましたが、解除されました。重要文化財に指定されていた作品が、現代の贋作であったという事件は、多くの人を震撼させました。しかし、この事件には、様々な疑問が残ります。
「永仁の壺」の作者は、本当に唐九郎だったのか?息子である嶺男は、なぜ自分が作ったものと発表したのか?そもそも、何のために作られたのか?文部技官・小山富士夫は、本当に贋作と知らなかったのか?など、多くの疑問が今も残されています。

この事件の真相を知る小山富士夫などは「永仁の壺」に関して、生涯沈黙を守り続けたことから、真相・真実が語られないまま、現代に伝えられています。

渦中の陶器研究家・加藤唐九郎は、伝統的な陶磁器の調査・研究に従事し、特に桃山時代の陶芸の研究・再現に力を入れていました。事件後は「重要文化財級の作品を作れる男」として名声が高くなったと言われています。

唐九郎は最後に「芸術は一種の革命でなければならない」という格言を残しています。

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